夜中に目が覚めた。明かりを点けると床の上で何かが蠢いている。黒い虫だった。ざわざわとざわめく幾本もの足におぞけが走り、思わず悲鳴を上げていた。すぐに兄が飛んできた。がたがたと震えながらわたしが床を指差すと、あろうことか兄は素手で虫をつまみ上げる。兄はつまんだ虫に目を寄せてじいと見つめる。ひょいと顔を上げたかと思うと、今度は無言でわたしの顔を凝視する。何秒、いや何分が過ぎただろう。何を思ったか、兄は虫をわたしの顔に近づけはじめた。わたしはそれを避けようとするが、なぜか身体が動かない。虫のほうでも兄の指先から逃れようとするが、兄は兄でそうはさせじと筋張った指で万力のように虫を締め上げる。つやつやと黒光りする虫の腹は兄の指の圧を受けて、まるでひょうたんのように歪み、その上下の房は今にもはち切れんばかりに膨れ上がっていた。わたしは、ぷちん。と音を立てて虫の腹が弾けるところを想像してしまう。この至近距離だ。汚らしい虫の体液はきっとわたしの目の中に入るだろう。千切れた足も何本かは目の中に入ってしまうだろう。嫌だ。それだけは耐えられない。それでもわたしは動けなかった。目を閉じることすらできなかった。虫は兵隊の行進のように規則正しい足並みで空を掻き、どんどんどんどんとわたしの目に迫ってくる。今ではもう虫の胴が大蛇の腹のように感じられた。兄は大きく見開いたままの私の目の中についに虫を放した。虫は自由の身になった途端にはげしく足を掻いてわたしの眼球の裏側に潜り込んだ。わたしは眼底で虫が蠢いているのをたしかに感じる。虫は8の字を描いてわたしの眼球の裏側を駆けずり回っている。かさかさかさかさと云う乾いた足音が脳髄に直接響いてくる。今すぐにスプーンで眼球ごとほじくり出してしまいたかった。身体中に鳥肌が立っていた。気が狂いそうだった。だがわたしは動けなかった。おいおいどうしたんだ。落ち着けよ。兄は云う。兄の穏やかな口調に安心したのか、虫はふたたび表へ這い出てくる。虫はさっきとは打って変わって悠々とした足つきでわたしの目蓋の上に乗る。そしてその身を横たえる。だってそれはお前さんのまつ毛だろう? 兄の言葉でわたしは金縛りが解けたようになってベッドに倒れ込む。まったくおかしな女だよ。お前さんは。兄は明かりを消して部屋から出て行った。
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短い言葉で一転されると「さすがだな」って思っちゃいます。
ちょっとグロい怪奇小説って「いやっーー」と思いながらも読み進めてしまいますね。
文字まで黒い虫に見えてゾワゾワしました。
こんばんは。
しつこいくらいに描写をしたので、
虫嫌いの人には耐え難いですよね。すみません(笑)
こんばんは。
どんでん返しできてたかなー。
これたぶんついのべのほうがうまくまとまってたと思うんですけど、
そこをあえて練習だと思って、引き伸ばして引き伸ばして書いてみました。
ときどきえぐいものとかぐろいものとか無性に読みたくなるんですよね。
平山夢明さんなんかはそんな存在だな。人間て不思議ですねぇ。
天候がグズついて寒くなると「ネットの虫(?)」になってしまいます 毎年のことですが
いろんな虫 がいますよね 本の虫 とか ○○の虫=マニア? とか、ですけど
今回の「黒い虫」は何か意味深ですね 一見、「何だろう、この兄は?」と思わせといて、
ラストの部分で、「別に変じゃない 変なのは妹?のほうだ」
ごく自然な事物も、視点を変えると「変なもの」になってしまう ”視点”次第で、いろいろ違って見えてくる ”人”次第でも、いろいろ違って見えてくる
世の中って、そんなもの…