家へと向かう道のり。
竹林の隅っこでは伸びに伸びた筍が長槍のように夕雲を突き、
通りがかりの民家の軒先では紫陽花の蕾達が気もそぞろになってアップを始めている。
新緑の香る五月の半ばと言えば、爽やかな気候――
で、あるはずなのだが、暑い。いわゆる夏日だった。
夕方だというのに、爽やかさとは程遠い蒸し暑さだ。
通りですれ違うスーツ姿のサラリーマン達はみな上着を担ぎ、
Yシャツの袖をまくり上げて、額に汗を滲ませている。
さぁ、俺もとっとと帰ってビールでも飲むぞ。
俺が頭の側にあぶくのような吹きだしを浮かべ、
キンキンに冷えたジョッキを思い描いていると、中華料理屋の赤い看板が目に入った。
子供の頃に家族でよく食べに来た店だ。
ここしばらくは休業していたようだが、今日は珍しくシャッターが開いている。
店の前で足を止めたところで、ある事に気付いた。
入口の目の高さの位置に貼られていたのだ。
暑くなってくる季節。初夏の風物詩と言えば――
そう「冷やし中華はじめました」の張り紙だ。
ピンと張った真新しい紙だったので、去年のものではないだろう。
しかし、久々に店を開けて、
いきなり「冷やし中華はじめました」というのは……
なにかが引っかかるような気がする。
たしかにここ数日は暑かった。だが……
時間にすれば、ほんの数秒間だと思うが、俺が首を傾げていると、
店の引き戸ががらがらと渇いた音を立てて開いた。
「あら」
懐かしい顔。店の大将の奥さんだった。
「こんにちは、お久しぶりです」
俺はひとりごとを人に聞かれていた時のような気恥ずかしい思いで挨拶をした。
「あらあら、大きくなったわねぇ」
とは言っても、もう27なんですけどね。
俺は苦笑いをしながら頭の後ろを掻いた。
最後に家族で食事に来たのが中学生くらいの頃だから、
その時と比べたら大きくなっているのはたしかだ。
それにしても、よく顔を覚えていてくれたものだ。
「えーと……」
おばさんは人差し指を立てながら何やら頭の中で探し物をしている様子だ。
「山本です」
「そうそう、山本さんちのお兄ちゃんだ。
いやねぇ、歳を取ると物忘れがひどくなっちゃって」
「いえいえ顔を覚えてくれてただけでも嬉しいですよ。
今日は店を開けるんですか? しばらく閉まってたから気になってたんだけど」
本当はあまり気にしてなかったが、そこはほら、大人の会話だ。
「実はねぇ。今年の初めに主人が亡くなっちゃったのよ」
「え?」
俺は驚いて、返す言葉が見つからなかった。
「癌でねぇ、あの人もよく頑張ったんだけど、病気には勝てなかったのよ」
「そうですか、それは……」
「でも幸せだったのよ、あの人は。沢山の常連さんに囲まれて。好きな仕事をしてね」
おばさんは目を地面に伏せ、何度も頷きながら話した。
「そうだったんですね。それでお店を閉めてたんだ。知らなくて、すみません」
「いいのよ。今仕事の帰り?」
「ええ、歩いてると、これに目が留まっちゃって」
俺は例の張り紙を指差した。
「だっておばさん、この張り紙、新しいでしょ?」
「よく気付いてくれたわねぇ」 おばさんは嬉しそうに目を細める。
「こう暑い日が続くとね、いつも、あの人と、そろそろだな。ええ、そろそろだわね。
なんて、冷やし中華の張り紙を張り出すのを楽しみにしてたのよ。
もうすぐ夏が来る。って考えるとなんだかわくわくするじゃない」
おばさんはカラリとした口調でそう言うと賑やかに笑った。
俺もつられて思わず声を出して笑ってしまう。
「そうですね。たしかにいくつになってもわくわくしますね、夏の訪れは」
「今日もね。朝から暑かったじゃない? 一人で朝ごはんを食べてると、
そろそろだな。って耳元で聞こえたような気がしたのよ。不思議よねぇ。
あの人の声を聞くと、なんだかわたしったらそわそわしちゃって。
紙とマジックを持ってきて、えいやっ!て勢いで書いてみたのよ。
いつもはあの人が書いてたんだけどね。
今年は初めてわたしが書いたのよ。下手くそな字で恥ずかしいわ」
「そんなことないです。冷やし中華らしさがよく出てますよ」
言ってて自分でも頭の悪そうなフォローだと思ったが、
おばさんは、まんざらでもなさそうに、そうかしらと自分の張り紙を振り返っていた。
「じゃあ今日は営業するわけではないんですね」
「ええ。店はいつもきれいな状態にしてるけど、わたし一人じゃねぇ。
でも、東京のレストランで働いている次男が継いでくれるかもって話があるのよ。
まあ、どうなるかは分からないけど、今年中の営業再開は厳しいわねぇ」
「では来年の夏にでも、冷やし中華を食べるのを楽しみにしてますよ。
あ。そうだ、それとおばさんの書いた張り紙もね」 俺は茶化すように最後に付け加えた。
「やだもう、気をつけて帰りなさいよ」
笑顔で見送ってくれているおばさんに手を挙げて、俺は歩き出す。
アスファルトから立ち上る空気が熱を帯びている。
再び俺の頭にビールの絵が浮かぶ。
そうだ。夏はもうそこまで来ている。
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あぶくのような吹き出し…
とてもリアルに冷やし中華とビアの絵が
浮かびました…あ、餃子も。
レイバックさんらしい爽やかさな描写を
楽しませて頂きましたよ〜。
夏といえば「冷やし中華はじめました」の張り紙と、「氷」の幟ですよね。
夏が来ーれば思い出す〜。
こういうお話は大好き。一つのきっかけががパッとひらめきをもたせるようなの。
大人になった僕と、人の良さそうなおばさんの会話がとても自然で良かったです。
>しばらくこんなペース
ちょっとォー!
しばらくってどんくらいよ?て思うのはわたしだけじゃないはず。
でも、お慶びごとだったら許しましょう。
まいどです☆
あぶくのような吹きだしって出てきますよねー。
僕は日常生活でもよく出してますよ。
( ゚∀゚).。oO(おお。なんと足のキレイなオニャノコ!)
みたいにね(笑)
爽やかぶるのは割と得意かも。
鯨さん>
どもども(´ー`)
氷もいいですよねー!
僕の近所に有名な氷屋さんのカキ氷があるのです。
でもまだ食ったことがないので今年は食うどー☆
つるさん>
まいどです☆
今日も大阪は暑かったですぞー。
余裕の半袖デビューでしたよ(笑)
そそ。これも張り紙から膨らませたお話なんで。
日常の風景を観察することも大事ですよね。
えらいスンマヘン^^;
目標は週一更新くらいに設定しておきますわw
夏の空気を感じました。
なかなか書く時間のない忙しい時もありますよ。まぁ、気楽に行きましょう。あ。僕は気楽過ぎか(笑)スイマセン。
この作品は長編作品の冒頭部分みたいで素敵ですね。
このあと「実はご主人は医療ミスで殺された」とか、
「戻ってきた次男がトラブルに巻き込まれる」とか、
いろいろ続きそう。
そして最後はハッピーエンドで、冷やし中華がはじまる♪
ビール、良いですねぇ!
大好きです♪
仕事から帰って飲む1杯!
たまりません!!
予想外にさわやかなお話でした(^o^)
こんばんは。
今回はね。初夏の空気のスケッチ的な感じっすね。
最近はなかなか書く時間と気力が無くて・・・^^;
まぁぼちぼちやりましょうw
iaさん>
こんばんは。
冷やし中華の張り紙見ると嬉しくなりますよね(笑)
そっか!こうやって長編を書き出せば良いのか!
なんつって長編どころか中編も書けんとです^^;
ミステリ好きのiaさんの想像力ナイスw
青雪さん>
こんばんは。
ほんとにねー仕事明けのビアーはタマランですよね^^
ああ。こんな時間なのに飲みたくなってきたw
七花さん>
こんばんは。
うははwそのうちネタがガンガン被ってきそうですよね(笑)
予想外に爽やか……僕はわりと爽やかな作風で……(以下略
いつもお世話になっております。
今年も夏が近づいてきましたね。
と、いうところで こちらの作品 さとる文庫で
読ませていただきたいのです。
よろしくお願いいたします。m(__)m
いつもすみません。
虎視眈々と狙ってるみたいで。あ、狙ってるんですけれど。
こんばんは。
こちらこそいつもありがとうございます。
今年もいつのまにやらそんな季節ですねぇ。
ていうかこれ書いてからもう三年も経つのか……(´・ω・`)
わりとお気に入りの作品ですのでセレクトしていただけて嬉しいです。
upを楽しみにしてますねー。
お世話になります。
配信しましたらお知らせいたします。
お待ちしておりますー。
さとる文庫 配信しました。
今回は奥さんの声がどうかな・・・と思います。
少し若すぎるかな。
もっと勉強しないとだめですね。
ありがとうございます。
お久しぶりです!
放置してすみません><
いまから聴きに行ってきます!
冷やし中華、始めました
⇒https://youtu.be/RWB2-ibqhEU