昼食こそがサラリーマンの唯一の楽しみである。
異論もあるかもしれないが、少なくとも私にとってはそうだった。
今日は何を食べようかと思案しながら駅の近くの食堂街へ向かう。
異物が視界に入った。
動く歩道を逆向きに歩いている男がいる。
灰色のスーツを着ていて、一見何の変哲もないサラリーマンに見える。
ここはオフィス街のど真ん中である。昼時であるからとうぜん歩行者の数も多かった。
男がルームランナー状態で足踏みしている箇所だけが渋滞し、通りかかる人々はみな男のことを迷惑そうに睨みつけては脇へとよけてゆく。
まったくおかしな人がいるものだ。
カツ丼を食べて会社へ戻る途中、動く歩道の様子をちらりとうかがってみた。
(ちなみに私は健康のためにつねに自分の足で歩くことにしている。もちろんエスカレーターも極力使わない)
まだ男は逆向きに歩いていた。
やっぱりおかしな人だ。
私は肩をすくめてその場を後にした。
だが話はそれで終わらなかった。
明くる日も、そのまた明くる日も、男は逆向きに歩いていたのである。
この動く歩道は24時間稼働しているという話を以前耳にしたことがあった。
もしやあの男は一日中あそこで足踏みをしているのだろうか?
まさかそんな筈はあるまい。私はひとり笑いをしてばかな考えを打ち消した。
それにしても、いったい何のために。
気になる。いったん考え出すと気になってしかたがなかった。
けっきょく私は通路を引き返し、動く歩道に足を踏み出した。
人々の肩越しに例の男の姿がぐんぐんと近づいてくる。
男の顔はやけに青白く、衰弱しきっているように見えた。
すれちがう瞬間、サッと身体を翻して男の背後に張りついた。
私は男にぶつからぬよう慎重に歩調を合わせながら目の前の肩を叩いた。
「もしもし、つかぬ事をうかがいますが、あなたはなぜ逆向きに歩いているのですか?」
男は振り向いてにやりと笑った。
「ありがとう。やっと交代がきてくれた」
真顔に戻った男はくるりと身体を反転させて歩み去っていった。
私はその場所から動くことができなかった。
呆気に取られて動けなかったという意味ではない。
自らの意思で身体の向きを変えることも、規則的な歩みを止めることもできなかったのだ。
次々と打ち寄せてくる人波は迷惑そうな視線を私に浴びせかけては脇を通りすぎてゆく。
中には露骨に舌打ちをする者もいた。
恥ずかしかった。
さっさと立ち去りたかった。
だが身体は言うことを聞かなかった。
助けを呼ぶ声も出せなかった。うつむくことすらできなかった。
私は今の私に唯一できること――
つまり、ただ足を前へ前へと動かし続けた。
誰かが声をかけてくれるのを今か今かと待ちわびながらただひたすらに歩き続けた。
ショートショート:目次へ
タグ:ショートショート