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びっくり鈍器


 また、夫のシャツに嗅いだことのない香水の匂いがついていた。あの男は普段香水をつけるような洒落者ではない。
 いまいましい。明美はシワだらけのシャツを丸めて洗濯機の中に放り込んだ。
 いったい何度目の浮気だろう? いつからかもう数えることもやめてしまった。明美が夫と結婚してすでに八年が過ぎていた。ついに子供はできなかった。それどころかここ数年はずっとセックスレスだった。惨めな自分の半生を振り返るたび、つめたい怒りが明美の胸の内側をひたひたと満たしてゆく。
 明美は台所に戻り、飲みかけのワインボトルに手を伸ばした。瓶の底に残る二センチ足らずの赤ワインをラッパ飲みで呷る。口唇の端からひとすじの雫がこぼれた。とっさに手で拭うと袖口に赤い染みが滲んだ。明美は今度こそ夫を殺してやろうと思った。

 翌日、明美は入念に変装をして、びっくり鈍器を訪れた。
 人目をうかがいながら自動ドアを抜ける。店内はいやに薄暗かった。だがそれは自分がサングラスをかけているからだとすぐに気づいた。天井は低く、そう広くもないフロアには様々な什器が立ち並び、禍々しい鈍器が所狭しと陳列されている。呼吸をするとマスク越しによどんだ空気が忍び込んできて、思わずむせ返りそうになった。
 さいわい店内には明美の他に客はいなかった。店の奥のカウンターの中でスポーツ新聞を開いていた店員がちらりと顔を上げる。サングラスに口髭という胡散臭いスタイルに、明美はなんとも言いようのない嫌悪感をおぼえた。
 明美は男と目を合わせぬように気をつけながら、鈍器を物色しはじめた。ところが緊張のせいか、値札に書かれている文字や数字がさっぱり頭に入ってこない。時間だけがいたずらに過ぎてゆき、脇から汗がじんわりと滲み出してくる。

「奥さん」
 突然声をかけられた。いつの間にか明美の背後に店員の男が立っていた。
「殺しは初めて?」
 明美は黙って頷いた。
「旦那さんかい?」
 明美はふたたび頷く。
 男はため息をついた。
「最近そういう人多いのよ。嫌な時代だねぇ」
 男はまるで人ごとのように肩をすくめた。人殺し用の凶器を売って儲けているくせになんだと明美は思ったが、もちろん声には出さない。
 男は腰にぶら下げていた鍵束を外すと、陳列ケースの下段からクリスタルの灰皿を取り出した。
「これなんかどう?」
 男は床に片膝をついたまま上目使いで明美に灰皿を差し出す。
 男の分厚い手の中で、華麗にカットされたクリスタルが照明を浴び、ぎらりと鈍く光った。
「女性の手でも握りやすいし、重さもちょうどいい。こいつでこめかみをガツンとやりゃあ一発だよ」
 明美は手渡されたそれを夫のこめかみに全力で振り下ろした。













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posted by layback at 18:36
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a milkman


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 久しぶりに親父と話をした。
 夢の中で。

 枕元の時計を見ると7:36。下腹部からせり上がってくる尿意に促されるようにしてベッドから降りる。それにしても、ほんの数分前のことだというのに、もうすでに夢の輪郭はおぼろげで、会話の内容もほとんど思い出せなかった。ただ、穏やかな気持ちで親父と話をしたということだけは憶えていた。

 実際にはここ数年、親父とのあいだに会話はまったくなかった。そのくせおれにしても親父にしても母親や妹とはふつうに話をするのだからおかしなものだ。もちろんこれは男同士だから無言でも分かりあえるとかそういった美しい類の話ではない。そもそも、おはようやおやすみ、ただいまにおかえりといった人間として最低限の基本的なあいさつを交わすことすら皆無なのだから会話などといった高尚なものはもはやおれたち父子のあいだでは望むべくもないのだ。
 それにしても最後に親父と話をしたのはいつだったろう。大学、いや、高校の時までさかのぼるのか? いかんせん、はっきりとは思い出せなかった。


 一階のトイレはひどく冷えていた。
 まれに見る朝勃ちっぷりのため、立ってするのを断念し、女のように座って上品に排尿することにする。目の前を横切る一本道を、赤のMAZDA RX-7が疾走している。これはおれが大昔に親父からもらったポスターだ。
 子供の頃は親父によく遊んでもらっていた記憶がある。おれはクルマが大好きで、子供向けの自動車図鑑では飽きたらず、親父が毎月買って帰ってくるカー雑誌をぼろぼろになるまでめくっていたものだ。当時カーディーラーに勤めていた親父はクルマに関する質問ならなんにでも答えてくれた。ミニカーだっていくつも買い与えてくれた。おれはそれを部屋の中で走らせる遊びがとくにお気に入りだった。いま考えてみればその頃からおれは生粋のインドア派だったのかもしれない。インドア派が高じて引きこもりになってしまったと言ってもあながちまちがいではないだろう。

 まぁそれは冗談として、引きこもりの本当の原因はというと、なんのことはない。ありがちな話。ただの適応障害だ。
 まず地元を離れて通った東京の大学で友達がひとりもできなかった。バイト先のピザ屋では仲間もできたが、せいぜいたまの飲み会に誘われるぐらい。休みの日にまで一緒に遊ぶような友達はやはりひとりもできなかった。なんとか大学を卒業して就職したはいいが、ここでもうまく周りに合わせることができなかった。数カ月はがんばって身体を引きずるようにして出社したものの、ある朝とつぜんベッドから出られなくなり、当日欠勤をした。それ以来、結局、一度も会社には行かなかった。

 東京の部屋を引き払い、実家に帰ると、しばらくゆっくりしたらいいと母親や妹は言ってくれた。いっぽう親父はというと、怒るでもなく嘆くでもなく、ただおれのことを空気のようにいないものとしてとらえていたようだ。去年の夏に死んだ犬のシロのほうがよっぽど存在感があったくらいだ。でも、だからといって、三年前のおれのドロップアウトが父子関係の断絶の原因というわけでもないんだな。なぜなら大学時代に何度か帰省した際にも親父と会話した記憶はまったくなかったからだ。 
 では、おれがあの男と最後に言葉を交わしたのはいったいいつのことなのだろう? 
 トイレのあまりの寒さにぶるりと震えが走る。寝ぼけた頭で考えていてもしょうがない。おれは勢いよくレバーを引き、水を流した。

 母親や妹は惰眠をむさぼっている。まだ誰にも使われていない清潔なキッチンがおれを迎えてくれる。日曜の朝ならではの光景。とても気分がいい。だがその爽快な気分も冷蔵庫を開けたとたんにぶち壊されてしまった。
 まただ。牛乳パックの注ぎ口が無残に破られている。こういう開け方をされると注ぎにくくてしょうがないんだ。男なら分かるはずだ。小便が二又に分かれたときのようなあれ。女に説明するなら―― そうだな。つまり、的がうまく定まらないってこと。
 おれは、こぼさぬように漏らさぬように細心の注意を払いながらマグカップになみなみと牛乳を注ぎ、電子レンジに投入する。傍らにはすでにハチミツもスタンバっている。扉に嵌めこまれたメッシュの向こうでスポットライトに照らされたマグが回転をはじめる。
 窓の外を見ると晴れているにもかかわらず鼻くそのような小雪がちらついていた。どうりで寒いはずだ。

 チーンと間抜けな音がキッチンに響くと同時に頭の中に鮮烈なイメージがよみがえった。思い出した。あれはたしか、高三の冬。日曜の朝、ハートと同様、壊れやすいガラスの腹を持つおれがいつものように電子レンジで牛乳を温めていると、とつぜん親父が姿を現してこう言い放ったのだ。
「温めたりしてバカだなお前さんは。牛乳は冷たいからこそ美味いんじゃないか」 
 今考えると単に笑って聞き流せばいいだけのたわごとだが、このときのおれは妙にカチンときて返事もしなかった。こんな無神経な人間とはもう二度と話をするものかと思ったのだ。そのあと東京の大学に合格し、家を出ることになったのだから、やはりあれが思いつく限りで最後のやり取りだったのではないだろうか? もっとも完全な一方通行でまったく会話にもなっていなかったのだけれど。

 マグを電子レンジから取り出して、老人の皮膚のような膜が張っているホットミルクの表面をふうふう吹いていると、あの時と同じように、親父がキッチンへのそりと入ってきた。親父は窓のそばのおれには目もくれずに冷蔵庫を開けた。そのままの姿勢でしばらくのあいだ動きが止まる。おそらく牛乳を探しているのだろう。

 自然と声が出ていた。
「ここだよ」
 おれはワゴンの上に載せていた牛乳パックを手に取って見せる。だが親父は返事をしない。
「これ開けたの親父か?」
 親父は小脇に抱えていた新聞を食卓の上に置くと、洗い上がった食器の中からグラスをひとつ取り出した。
「毎回こんなじゃねーか」おれは下手くそに開けられた注ぎ口を指差して言った。
 親父はおれとは目も合わせず、いいからそのパックを寄こせと身振りで言う。
「なんでこうやってきれいに開けないんだよ」
 おれが牛乳パックの閉じた側の注ぎ口の翼を180度に広げ、両脇から指で挟むようにして新たな注ぎ口をぱっくり開けてみせると、親父は生まれて初めて手品を目にした子供のように呆然とした表情をみせた。
「ああ、それはそうやって開けるものなのか」 
 おれは親父が久しぶりに発した言葉の意味をすぐには掴めなかった。
「俺はいつも爪で開けてたよ」親父は牛乳パックを自分の手元に引き寄せると、人差指の爪で注ぎ口をがりがりと引っ掻くようにしてみせた。今度はおれが唖然とする番だった。
「なるほどなぁ」親父はうんうんと頷きながら自分で開けた汚い方の口から牛乳を注いでいる。なるほどと言いつつも、しっかり牛乳は飛び散っていた。
「じゃあ、あれか、親父はずっとそうやって爪で開けてたのか」
「ああ」
「何十年も?」
「そうだな」
 おれは言葉を失ってしまった。
「ありがとう。勉強になったよ」
 冷たい牛乳をぐっと飲み干した親父は食卓に空っぽのグラスを置き去りにしてキッチンから出ていった。

 ひとり取り残されたおれは、とりあえず、やり場のない思いを牛乳パックと共に冷蔵庫に閉じ込めた。閉じ込めようとした。なんだかもやもやするなと思ったら、親父が自分のことを「俺」と言うのも今はじめて聞いたような気がする。親父の一人称はずっと「お父さん」だったはずなのに。頭の中が混乱していた。うまく自分の気持ちが整理できなかった。それでも。これだけは確実に言えそうだ。もし今後親父と会話することが一切なかったとしても今日のことだけはまちがいなく憶えているだろう。いい大人が牛乳パックの開け方を知らなかっただなんて常識的に考えてありえない。ありえなさすぎる。さっきの親父の抜け作顔を思い出すと、なんだか大げさに落ち込んだり勝手に行き詰まったりしょっちゅう死にたくなったりしていた自分の悩みのすべてが、急にバカバカしく思えてきた。

 いつのまにか窓から射す陽の光が食卓まで届きはじめている。雪もとっくに止んだようだ。どたどたと階段を下りてくる音が聞こえる。そろそろ妹が起き出してきたのかもしれない。
 おれはどかりとイスに腰を下ろし、いいかげんぬるくなりはじめていたホットミルクをずずずとすする。ぜんぜん甘くなかった。そりゃそうだ。ハチミツを入れるのをすっかり忘れていた。それでも胃にするすると落ちてゆくミルクのやさしい温もりはおれをじゅうぶんにほっとさせてくれた。
 おれは、親父がこぼしていった牛乳とグラスが残した水滴の輪を台ふきんで拭うと、膨大な折込みチラシの束の中から、求人広告だけを選り出しはじめた。













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