南船場の雑居ビルの二階にあるカフェ。
階段の所に小さな看板が出ているだけの目立たぬ店だが、
ここは紅茶とケーキが滅法美味かった。
湯気と共に立ち上るダージリン特有の
マスカットフレイバーを楽しみながら、
私は目の前に座る彼女の瞳を見つめていた。
「この店はやはりいいね。まっとうな仕事をしているよ」
「そうね。あなたに連れてきてもらうまで、
この店の事は知らなかったけど。今ではお気に入りの店の一つだわ」
彼女は言い終わると目を伏せて、コーヒーカップに口をつけた。
紅茶が美味いよ。という私の勧めにも乗らず、
彼女はいつもブレンドコーヒーを頼んでいる。
もちろん、この店はコーヒーも十分に美味いのだが。
カップから離れた彼女の上唇が湿り、艶やかに光っていた。
奥二重の目や、すっと定規で引いたような鼻が、
小ぶりで目立たないだけに、
ほどよいボリューム感で形の整った彼女の唇は、
青一色の海の中を泳ぐ熱帯魚のように際立って見えた。
初めて彼女と一緒に――
「どうしたの?」
海の中から引き上げられた。
「いや。初めて食事に誘った時の事を思い出していたんだ」
「そう。あの時はたしかお鍋を食べに行ったんだっけ。
すごく冷え込んだ日で、全員一致でお鍋に行こう。ってなったのよね」
「全員って」
思わず苦笑いをしてしまう。
「二人だったじゃないか。あの時は」
彼女の言葉遣いは独特だ。
落ち着いた外見とのギャップがとても可愛く思えた。
「そうね。あれからもう一年。時間の経つのは早いわね」
「ああ。あっという間だった」
「ほんと早い。いやになっちゃうな」
彼女は重たそうにため息をつき、目を瞑った。
いつもはクルンと上を向いたまつ毛も、
今日は心なしかお辞儀をしているように見えた。
「なあ」「ねぇ」
「ん?」「なに?」
二人の言葉が連続してぶつかった。
「どうぞ。レディファーストだよ」
私は笑いながら彼女に促した。
「ありがとう、今まで。
もう、あなたとは別れようと思うの。
本当にごめんなさい」
彼女の口からこぼれた突然の言葉に、思わず頬が引きつった。
「え? 何故だい?」
・・・・・・
ほんの数秒の沈黙に、二人の心の距離が現れている。
私にはそんな風に感じられた。
「わたし、東京に行こうと思って。友達が興した会社に誘われてるのよ」
「それで、そんな理由で、終わりにするのかい?」
「ごめんなさい」
後に続く言葉を待っていたが、
彼女の唇がそれ以上開くことは無く、
熱帯魚はその鮮やかな色彩を急速に失った。
「分かったよ」
私は右手でポケットの中の小箱を握り締めたまま立ち上がり、
左手でテーブルの上の伝票を掴んだ。
「元気で」
そう言い残してレジへ向かった。
頭がぼうっとした状態のまま支払いを済ませる。
ドアに手をかけたところで、
一瞬躊躇し、私は振り返った。
「これ。捨てておいて下さい」
店員の女性に右手で握った小箱を手渡した。
「あ、あの――」
背中に声を掛けられたが、
私はそのまま階段を下りていった。
元気で泳いでくれたら。
それでいい。
海の底へ沈みたかった。
冷たく、何の物音も届かない海の底へ。
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