もう我慢できない。
地下鉄の車内で、ユウジは額に脂汗を浮かべていた。
下腹部に力を込め、必死に門を閉ざそうとするが、
もうダメ。
もうムリ。
気を抜くと、一気に突破されそうだ。
うううううう……
顔が青ざめてきた所で、車両が駅に到着した。
さぁ、走れっ!
という訳には行かないのがツライところだ。
走るときっと、その振動に耐えられないだろうし、
かと言って、歩いているとタイムアップになりそうだった。
このジレンマ。
くううううう……
ユウジは内股気味になりながら、よろよろとエスカレーターに向かった。
もう少し。あと少し。
トイレは昇りきってすぐ左手だ。
ふぅ。なんとか間に合った。
しかし、ここで気を抜くとまずいのだ。まだ――
@大用のボックスに入り。
Aベルトを緩め。
Bズボンを下ろす。
この三つの行程をクリアしなければならないのだから。
ここで油断し、粗相したことのある者は多いはずだ。
みな口にはしないが、間違いなく一度は経験があるだろう。
ユウジは三つの行程を少しでも短縮するために、
ベルトのバックルを片手で緩めながらボックスへと入った。
和式は苦手だったが、そんな悠長な事は言ってられない。
便器を跨ぎ、ズボンとトランクスを同時に膝まで下ろす。
目の前の壁に左手を突いて、バランスを取りながら全てを開放した。
堰を切ったように――
――以下省略。
はぁ。スッキリ。
ペーパーで後始末をしようとした時だ。
壁に突いた手の指の隙間に文字が見えた。
ん? 落書きか。
どうせHなヤツでしょ。
“このオンナ↓すぐヤラせてくれます。
×××ー××××ー××××” みたいな。
左手を少しずらしてみた。
“左を見ろ”
出たっ。これもよくありがちなヤツだ。
最後には必ず肩透かしを食らうのだが、ついつい見てしまうのが人の性。
ユウジが左側の壁を見ると、ちょうど目の高さに次の指示が書いてある。
“右を見ろ”
そうそう、こうやって振り回されるんだよな。
180°首を回し、右側の壁を見る。今度は――
“後を見ろ”
そのまま肩越しに後を振り返ると――
ドアの裏側には何も書かれていなかった。
クソっ、何だよ。やっぱ肩透かしか。
ユウジは前を向き、手早くお尻の後始末を済ませた。
レバーを足で踏み、水を流す。
ベルトを締め、ボックスから出ようとしたところで、
ユウジの目に小さな文字が飛び込んで来た。
ここだけは上に書かれていたのか。
これでは立ち上がらないと見えない。
“清掃用具入れのドア。足元を見ろ”
おいおい。なんだそりゃ。
ユウジの頭の中を「?」マークがくるくると回っていた。
あきらかにおかしな悪戯だよな。
ボックスから出ると、小用を足している中年男性が一人いた。
今は指示を見れない。
ここでしゃがみ込んでいたら、かなり不審人物だ。
ハンカチを口に咥え、手を洗いながら、
ユウジはそわそわと落ち着かない気分になっていた。
持ち前の好奇心が首をもたげてきている。
中年男性は長い用を足すと、手も洗わずにトイレを後にした。
人気が消えた今がチャンスだ。
ユウジは清掃用具入れに駆け寄った。
後を気にしながら、しゃがんで小さく書かれた文字を読む。
“改札を出てすぐ左、コインロッカー21の上を見ろ”
ますます謎が深まる。
ただの悪戯なのか?
それとも何か目的があるのか?
ユウジは腹をくくり、謎の指示を追いかけてみる事にした。
トイレを後にし、改札を出て、まっすぐコインロッカーへ向かう。
21。一番上のボックスだ。
金属製の扉には何も書かれていない。
少し背伸びし、右手でボックスの上をまさぐってみる。
埃が指にまとわりつくが、構わず手を伸ばすと指先に何かが触れた。
カチャリ。
なんとなく予想はしていたが、やはり。
コインロッカーのキーだ。
21。この目の前のボックスかよ。
ん? プラスチックのタグの裏に、小さな紙片が貼られている。
親指の爪大の紙に、細かな字で書かれていたのは――
“扉を開けろ”
おいおいおいおい。なんなんだよ。
でも、ここまで来たら、開けるしかないよな。
一瞬このまま踵を返そうかとも考えたが、やはり好奇心が勝ってしまった。
ユウジは銀色のキーを鍵穴に挿し込み、そろそろと扉を開けた。
ボックスの奥の方に、新聞紙で包まれた塊が見える。
取り出そうとして、そいつを右手で掴んだ。
え?
サイズの割りに、ズシリと重い。
まさか――
「動くなっ!」
突然の大声に驚き、ユウジは思わず後を振り返った。
ダークスーツを着た男達が、リボルバーを手にユウジを取り囲んでいる。
「両手を挙げろ!」
その内の一人が、力無く挙げられたユウジの手から、荒々しく新聞紙の包みをもぎ取った。
男はそのまま白い手袋をはめた手で包みを広げる。
黒光りする銃身が顔を覗かせた。
「いや、ち、違うんだ! オレは――」
「黙れ! 拳銃不法所持で現行犯逮捕する」
ユウジは二人の刑事に両脇を抱えられ、ポリスボックスへ引きずられて行く。
そんな改札の外の喧騒をよそに、駅構内の男子トイレでは――
大きなマスクを付け、ゴシゴシと壁を磨く清掃夫がいた。
ユウジはその後も必死に弁解を続けたが、
説明を裏付ける落書きはついに発見されず、
数ヵ月後、彼はブタ箱に放り込まれた。
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