うっ。
ちょっと、押さないでよ。
ジロリと肩越しに後を睨んだ。
誰が押したと言う訳ではない。それは分かっている。
満員電車に乗る限り、こんな事は日常茶飯事なのだから。
ぎゅうぎゅう詰めの車内でイライラが募り、
些細な事でも腹が立った。ただそれだけだった。
前に向き直る。中吊り広告が目に入る。
蟹原友里ちゃんと引切もえちゃんが並んで色気のあるポーズを取り、
まるでショートパンツから伸びる長い脚を競い合っているようだ。
ファッション雑誌の広告だった。
かわいい。
あれぐらい細ければ、何を着ても似合う。
ハァ……。
ため息が洩れる。
わたしだって身長はそこそこ(168センチ)だけど。
両親から受け継いだ顔の大きさと骨太っぷりだけはどうしようもなかった。
ハァ……。
広告から目を離し、吊革を持つ自分の手を眺める。
そうだ、ここはカニちゃんやもえちゃんにも負けてない。
手の綺麗さだけは子供の頃から自信があった。
スケートリンクのように滑らかで透き通るような白い肌。
そこからすっと伸びる細くて長い指。
もちろん手入れだって怠らない。
毎晩、小量なくせにバカ高い保湿クリームを塗りこんでいたし、
食器を洗う時は、夏場でも必ず手袋をするようにしていた。
やりすぎかな?
でも女の子なら普通だよね。
だってネイルも守らなきゃいけないし。
吊革を持ったまま、手首をクルリと回す。
昨日サロンで手入れしてもらったばかりのフレンチネイルが、
車内のどんよりとした空気の中、ひときわ光っているように見えた。
自分の指先を見ているだけで幸せな気分になってくる。
さっきまでの不機嫌はどこへやら。
もし他人に見られていたら、そんな事を言われそうだ。
いや、実際、意識してみると――
目の前の座席に座っているピタピタスーツのお兄さんや、
両隣に立つハゲたオジサン、メガネのオジサンも、
わたしの指先をチラチラと見ているような気がする。
フフッ。自意識過剰かな。
漏れそうになる笑みを堪えたところで、
電車がホームに到着したようだ。
降りなきゃ。
ドアから遠い場所まで押し込まれていたので少しだけ焦った。
身体を半身にし、グイグイと人波を掻き分けてゆく。
ふぅ、やっと降りれた。
なんて、気を抜いたのが悪かったのかもしれない。
電車とホームの段差に足を取られたわたしは、
とっさに身体を支える物も無く、踏ん張り切れずに転んでしまった。
右手に持っていたバッグはあっけなくわたしの手を離れ、
開いた口から電気シェーバーや携帯電話がホームに吐き出された。
恥ずかしい。
「大丈夫ですか?」
打ちつけた腰の痛みと恥ずかしさとで、
一瞬固まっていたわたしの頭の上から、声が降ってきた。
座り込んだまま見上げると――
さっき前の座席に座っていたピタピタスーツのお兄さん。
「は、はい」
そう応えるのが精一杯。
わたしは恥ずかしさのあまり顔を伏せ、
這いつくばったまま、散らばった物を拾おうとした。
「あっ」
「あ」
同じように腰をかがめ、
携帯電話を拾おうとしてくれたピタピタお兄さんの手の上に、
自分の手を突いてしまった。
二人で顔を見合わせる。
さっきより断然、至近距離。
やだ、近くで見るとブジテレビのイケメンアナウンサーに似てる。
思わず重ねた手に力が入った。
顔を下ろしたお兄さんの視線は、
自らの手をギュっと包み込むフレンチネイルに釘付けだった。
その時、わたしの顔は恥ずかしさとドキドキとで、真っ赤に染まっていたかもしれない。
再び顔を上げ、わたしの目を見つめるお兄さん。
目と手を重ね合わせたまま、二人の時間が止まる。
なんて事はまるでなく。
お兄さんは困惑した表情でこう言った。
「あのぉ、僕、そっちの趣味は無いんで……」
やっぱり。
まだまだわたし達には住みにくい所よ。
日本って国は。
男がネイルして何が悪いのよ。
ねぇ?
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