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ガラ・ルファ
彼の部屋の水槽には見たことのない小さな魚がたくさん泳いでいた。
「ねえ、これなんて魚?」
わたしが訊ねると、彼はそっけなく、ガラ・ルファ。と答えた。
二人ともあまりお腹は空いていなかったから、夕食はデパ地下で買ってきたサラダとバゲットとワインで軽くすませた。
「洗面所借りるわね」
食後すぐにわたしは歯を磨く。だからいつも歯ブラシは持ち歩いていた。
集中して歯を磨いていて、ふと気付くと、彼が鏡の奥に立っていた。
わたしはむせ返りそうになりながら口の中をゆすいだ。
「ちょっとなによ、びっくりするじゃない」
彼は口をもごもごと膨らませている。右手にはプラスチックのマグを持っていた。
「まだなにか食べてるの?」
彼は無表情に首を横に振る。
「じゃあなんなのよ」
彼はまた首を横に振る。
「飲みもの? それとも、うがいでもしてるの?」
やっぱり彼は首を横に振った。
わたしはため息をつく。
出会った頃から変な子だとは思ってたけど、ほんとに変わってる。
部屋に遊びにくるのはまだ早かったかな。などと考えてしまう。
「歯は磨かないの?」
磨かないとキスもおあずけなんだぞ。わたしは心の中でつぶやく。
彼は返事もせずに、ただその場に立ち尽くしている。
口はまだもごもごとさせたままで、ただし表情だけは、いつのまにか恍惚となっていた。
業を煮やしたわたしは詰問する。
「言いなさい。お口の中身はなんなのよ」
彼は、ちょっと待ってて、と身振りを残して部屋に消え、四角いメモ帳を持って戻ってきた。
彼は掌の上のメモになにやら書きはじめる。
書き終えたかと思うと、今度はそれを印籠のように、わたしの目の前に突き付けた。
ガラ・ルファ:通称ドクター・フィッシュ。
小さな魚が遊んでいるような文字で、メモにはそう書かれていた。
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手紙
さみしい。彼女はひとことだけ記した手紙をガラス瓶に入れて海に投げた。
ちょうどひと月後に返事が届いた。ガラス瓶の中に閉じ込められた黄ばんだ羊皮紙には、僕もさみしい。とだけ書かれていた。それから奇妙な形の文通がはじまった。だが二人は互いの置かれた状況をけして詮索しなかった。孤独な二人の間に在ったのは、ただその時々の心情を短く綴った手紙のやりとり、それだけだった。それだけで彼女は十分だった。誰かと会話するよろこびを彼女は子供の頃によくしがんだ砂糖きびのようにかみしめていた。ずっと自分以外の誰かの言葉に飢えていたのだ。彼の言葉は波という気まぐれな郵便配達員によって不定期に彼女の許に届けられた。彼女は彼からの手紙が待ち遠しくてしかたがなかった。毎日砂浜に出ては、日が暮れるまで郵便が届くのを待ち続けた。やがて他愛のない言葉のやりとりをくり返すうちに彼女の中でふしぎな感情が芽生えていった。それは満ち満ちてゆく月のように日に日に大きくなっていった。あなたはいま何処にいるの? けして会えないことはわかっていながら、ついに彼女はそう書いた。そう書いてしまった。彼女はガラス瓶を投げるか投げまいか、なんどもためらいながら、けっきょくそれを波に向かって投げた。ちょうどひと月後、彼からの返事が届いた。黄ばんだ羊皮紙には、彼女が漂着したこの島の地図と、百年前の今日の日付が記されていた。
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