またか。またなのか。
真夜中の公園にぽっかりと口を開けた穴の底で、明日美はただただ呆然とする。
ある番組スタッフの一人と好い仲になり、今夜は三度目のデートだった。
だが、待ち合わせの公園のベンチで手を振る彼の元へ行こうと明日美が小走りになった途端、踏み出したその先の地面が消えたのだ。
心臓が早鐘を打っている。
明日美が落とし穴ドッキリに引っかかるのはこれが二度目だった。
そうは言っても簡単に慣れるものではない。動悸はなかなか収まらなかった。
明日美は自分の身体をさすってみる。幸いどこにも痛みはなかった。
穴の底にはスチロール製の緩衝材と柔らかい砂が敷き詰められていた。
眩しい。穴の外から明日美の顔に照明が当てられる。
明日美は光に手をかざし目を細めた。
人型のシルエットが視界に浮かんだ。
穴の縁から身を乗り出し、中を覗き込んでいるのは番組でメインを張っているブラックブーツのサトシだろう。
明日美の耳にサトシの声が響いた。
やーい。また引っかかったー。とは言わない。
「大丈夫?」
サトシは白い歯をこぼしながら優しげな声で砂まみれの明日美を気遣ってみせる。
「サトシさん! なんなんですか!」
明日美は泣きそうになりながらも怒りのポーズを取る。
それが求められているリアクションだった。
それがお笑い芸人である明日美のキャラだった。
「もう! いい加減にしてくださいよ!」
これは本心だった。泣きたかった。
ほんとうにいい加減にしてほしかった。
たくさんの人をたくさん笑わせてたくさん幸せにする。
純粋な理想を抱いてお笑いの世界に飛び込んだ。
でも、あたしはやはりこの世界には向いてないのかもしれない。
サトシ相手に日頃は使いもしない汚い罵りの言葉を吐きながら明日美は考える。
泣きたい時にも泣けない。女である事も捨てなければならない。
こんな仕事なんてもう――
やがて砂まみれの明日美の身体はスタッフの手によって穴から引き上げられた。
新しいADだろうか。見たことのない顔だった。
力強く温かいその手の甲には、うっすらと十字架の痣が滲んでいた。
彼はふらつく明日美の身体を支えながら小声で言った。
「負けないでください。いつかきっとあなたの願いは叶いますから」
「もう引っかかっちゃダメだよー」
明日美は、手を振るサトシと芸人仲間たちに見送られ、公園の端に停められているロケバスの方へ歩き出した。
中には簡易シャワーと着替えが用意されているそうだ。
と、突然、足が空を掻いた。そこにあるはずの地面がなかった。
信じられなかった。追い打ちをかけるように掘られた落とし穴だった。
こうして傷めつけられた者をもう一度傷めつけるのだ。
それが面白いのだ。それが彼らの考えている面白さなのだ。
明日美が出演しているのはつまりそういう番組なのだった。
明日美は呪った。みんな死んじゃえ。
明日美は重力に抵抗することをやめた。どこまでも落ちていけばいい。
閉じたまぶたの端が熱くなる。涙が吹きこぼれてゆく。
どすんと背中から穴の底に落ちた。
明日美が薄く目を開けたその時、上空が真っ白に輝いた。
雷鳴が轟く。連鎖する爆発音。交錯する幾多の悲鳴。
地響きと共に大地が揺れる。熱風が穴の外から吹き込んでくる。
コンクリート片やへし折られた木々の枝葉が風に乗り、猛然と明日美に襲いかかる。
大きな石の塊が明日美の懐に飛び込んできた。
いや、石にしては軽い、と思ったら塊に張り付いている髪の毛が目に入った。
ひゃっ、明日美はとっさにその物体を放り出す。
穴の底に無様に転がり、虚ろな目で明日美を見つめているのは、サトシの頭部だった。
叫びたかったが声が出ない。
何が、何が起きたの?
明日美は異様な熱と匂いに顔をしかめながら穴の外の世界を見上げた。
夜空の端は赤く染まり、四方から湧き上がる黒々とした煙が、暗闇をさらに黒く染めていた。
※本篇はヴァッキーノさんのブログで募集されている競作企画、
【「穴」をテーマにみんなでショートショート書きませんか?】用に書いてみました。
ルールとしては、
1 どこかの街に突然開いた穴に関すること。
2 大きな十字型の痣が手にある男がちょっとだけでも登場すること。
3 7月14日(水)まで募集!
とのことです。
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