レバーを手前に引く。
キキキと金属の軋む音。ほどよい勢いで流れる水。
ん?
なんだ、この髪の毛は……。
洋式トイレの便器の枠の部分から長い髪の毛が一本。
そよそよと水流にそよいでいた。
不景気による突然の首切り。
派遣先の寮を追い出され、この部屋に越して来たのは、つい数日前のことだ。
住んでいるのは俺一人。
彼女ですら、まだ部屋には呼んでいない。
だから、このような女の髪の毛が、ここにあるはずがない。
紛れ込むはずがないのだ。
いや、もちろんロン毛の男の髪の毛という可能性も残されてはいる。
が……。
あらかじめ言っておくと、俺は丸坊主である。
では、いったい、この髪の毛はどこから来たというのだ。
「浮気だけは絶っ対に許さないから」
次の土曜日に遊びに来ることになっている彼女の台詞だ。
もしあいつに、こんな髪の毛を見られてみろ。
それこそ俺の命は……
いや、さすがに命(タマ)まで取られることはないとしても、
サオの一本や二本切り取られてもまったく不思議ではない。
そう。それほど激情的な性格なのだ、彼女は。
トイレットペーパーを丸め、便器に押しつけるようにして、忌まわしい髪の毛を取り除く。
俺は、もう一度レバーを引いた。
ザザァ、キキキと無駄に騒々しい音が鳴り響く。
しばし駄々をこねるように水面で暴れたものの、
やがて力尽き、吸い込まれてゆくティッシュボール。
「ど、どうか、今回のことは水に流してくれー」
くくく。
くだらねぇ。
一人暮らしをしていると、どうにも独り言が多くなって困る。
ぴぴぴ。と部屋で携帯が鳴っている。
「はい」
「もしもしー、何してるのー?」
「おお。お前か。ちょっと聞いてくれよ。
さっきな、トイレから髪の毛が出てきてな。
またそれが、長い髪なんだよ――」
「ちょっと、誰の髪よ!」
「ちょ、おい、待てよ、違うんだ、浮気じゃない、浮気じゃない」
俺は携帯を強く耳に押し当て、ぶんぶんと首を横に振る。
「じゃあ、なんで髪の毛があるのよ。あんたなんかハゲのくせにっ」
「ちょ、おい、ハゲはないだろ、ハゲは。ボウズといえ、ボウズと。
いいか、お前、ボウズとハゲとじゃな、はっきりいって雲泥の――」
「ふん。どっちでもいいわよ」
「お……」
「許さないからね」
「はい……。でもさ、俺考えたんだけどさ、
トイレの水って、あの便器の後にあるタンクから出てくるんだろ? つうことは――」
「トモくん? そういえばトモくんの部屋って、やたらと家賃安かったよね……」
「おお、しかもセパレートだし、クロスやフローリングも超キレイだし、これこそ掘り出し物件だよな」
「……」
「ん? どした?」
「それって……、訳ありだったからなんじゃないの? だって――」
何かが背すじをにじにじと這い上がってきた。
「おいおい、冗談は顔だけにしろってー、はっはっはー」
俺は寒気を笑い声で追い払い、電話を切った。
その後。
うちのトイレからは、二度ほど長い髪の毛が出てきた。
俺は再び引っ越すことにした。
なんと、わずか一ヶ月でだ。
やれやれ。
金はかかったがしょうがない。
気持ちが悪いものをムリにガマンすることはないだろう。
決めるとなったら早かった。
まぁ引越しそのものは苦にならないのだ。
独り身であるが故。荷物も大してあるわけではないからだ。
だがインターネットがなかなか繋がらないのは困る。
つまり、そう。ブログも更新できないわけで。
先日。パケット代を気にしながら携帯から確認したところ。
どうやら訪問者の数も激減しているようだ。
まったくやれやれ。
なんにしても早く開通してほしいものだ。
え?
いや、まぁ、結局。
水洗タンクの中は、見ていない。
だが、今、思い返してみると、たしかに。
水流は少なかったような、気もするのだ。
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