お前らなぁ、だっせぇんだよ、なんだ、あの演奏は?
打ち上げはヤメだ、ヤメ、反省会だこの野郎!
なんだその顔はオラァッ!
このバンドは俺で持ってるんだろうが!
ちょっと、ヤメなよ、てっちゃん。
店の人にも迷惑でしょ。
うるせぇ園美! お前は関係ねぇぇぇっ!
テーブルをひっくり返す非力な俺の手。
ドアをラバーソールで豪快に蹴飛ばし、店を飛び出したものの、
すぐに足をもつれさせ、がらがらと階段を転がり落ちる。
ぐぐぅぅ。口の中に鉄の味が広がる。
てっちゃん!? てっちゃん!?
大丈夫!?
――頭蓋骨が軋む。
暗闇。そしてフラッシュ。
ホットケーキの甘い匂い。
てっちゃん焼けたよ。食べるでしょ?
ああ? 今はいい。気持ち悪いからいい。
もう……、飲みすぎなんだよ、バーカ。
あ? うるせぇよ……
……園美。ホットケーキ食うなら冷蔵庫にメイプルシロップあんぞ。
あたし、ダメなの。メイプルシロップ。
独特の香りというかクセがあるでしょ?
あっそ。バターもあったと思うぞ。
ありがと。あたし、先に食べちゃうよ。
また暗闇。
――軋む。頭蓋骨がみゅうっと音を立てて軋む。
断続的に焚かれるフラッシュ。
脳内スクリーンに流れるコマ切れのシーン。
ふっと現実に戻る。
もう十月だというのに、強い日差しがアスファルトの上に、俺の影を色濃く刻みつけていた。
俺は自分の影を追うように歩き続ける。
なぜだか鼻の奥深くに残るホットケーキの甘い匂い。
俺にとってそれは安息の象徴だ。
貧乏だった子供の頃、母親が食事代わりに、よく焼いてくれた。
今振り返り、栄養の事などを考えると、さすがにどうかと思うが、
当時の俺にとってこれは、最高にお気に入りのメニューだった。
どうやら、そんな思い出話を何度か園美にしたようだ。
俺は、よく覚えていない。
ある日いきなり。あいつはホットケーキミックスを買ってきた。
もう、フライパンがダメだから焦げちゃったじゃん。
などと言いながら園美は俺のアパートでホットケーキを焼く。何枚も焼く。
二日酔いだから食えないと言っているのに――
数ヶ月前の記憶が鮮明に蘇る。
俺は火の点いてない煙草をくわえたまま歩いていた。
日差しが急速に弱まり、足下の影がすっと消えた。
空を見上げると、重そうな灰色の雲が太陽を覆っている。
だが、それでも俺の足どりは軽かった。
今日は二度目の一時帰宅だからだ。
酒を飲んでぶっ倒れた俺は病院に担ぎ込まれた。
即刻強制入院。アルコール依存症患者専用の病棟にだ。
勝手に出れない。酒を飲めない。これは、まったくもってやり切れない。
だが。俺は鉄の意志を持つ男だ。
でなきゃ、三十過ぎてバイトしながら、バンドを続けたりしていない。
……いや、バンドは解散してしまった。
階段から落ちたあの日以来、メンバーとは連絡がつかない。
まぁいい。とにかく、俺は鉄の意志で酒を断った。
もう一度言う。
一時帰宅は今日で二度目だ。
これは医者にも頑張りを認められているということだ。
退院もじきだろう。
もう依存症からは完全に脱却したと思う。
手の震えもない。これでまたギターが弾ける。曲が書ける。
――もう大丈夫。俺はもう大丈夫だ。
自らに言い聞かせるように呟く。
ジーンズのポケットの中で携帯が震えた。
園美からのメール。
「ゴメン! 少し仕事で遅くなる。なるべく早く帰るから、家で待っててね」
「分かった」
短く返信する。
カンカンカンと澄んだ音を立て、アパートの階段を昇る。
久々の自分の部屋。
園美が定期的に掃除や空気の入れ替えをやってくれているのだろう。
長らく放置された部屋独特の埃っぽさは微塵も感じられない。
俺は畳の上に座り込み、煙草に火を点ける。
しばらくの間、思索にふける。
長い距離を歩いたせいか喉が渇いていた。
ビールは……。
立ち上がり、冷蔵庫を開ける。
ない。あるはずがない。
買いだめしておいた缶ビールは、全部、園美に処分された。
部屋の各所に隠しておいた酒も、全て発見され、捨てられた。
園美は面会に来た時、そう俺に報告した。いたってドライに、事務的に。
押入れの天袋。台所のシンクの下。
米びつの中。便所のタンク。All Of Them。おみそれしました。
あいつは探偵になれる。いや麻取やマルサでもいけそうだ。
しょうがない。
味気のない冷蔵庫から1.5リットルのペットボトルに入った緑茶を取り出した。
グラスに注ぎ、ぐいっと飲み干す。
ペットボトルをしまうとき、一つの瓶に気が付いた。
メイプルシロップ。
これは園美がホットケーキを焼くようになってから、俺が買ってきたものだ。
やはりホットケーキにメイプルシロップは欠かせない。
だが園美はメイプル独特の香りが、どうにも苦手なようで、
俺がいくら勧めても、頑なに使おうとしなかった――
改めて記憶の糸を手繰る。
たしか園美の酒類廃棄報告に、こいつは入ってなかったはずだ。
自分でもすっかり忘れていた。
俺は、この瓶の中にも隠したのだ。
メイプルシロップの中身をウイスキーに入れ替えれば、園美は絶対に気付かない。
そう思った。
事実。気付かれなかったようだ。
目の前にある瓶の中身は、減っているようには見えなかった。
――もう大丈夫。俺はもう大丈夫なんだ。
俺は冷蔵庫の扉の部分に収まっている琥珀色の瓶にゆっくりと手を伸ばした。
緑茶を入れたグラスを水道の水でゆすぎ、魅惑的に輝く液体をおごそかに注ぐ。
おっと。
慌てて、手が震えて、思わずこぼしそうになる。
鼻腔をくすぐる芳しい薫り。
いや違う、これは……
甘い香りだ……
中身は。
再び入れ替えられていた。
メイプルシロップに。
ただいまー。
わ、わ!
てっちゃん、おかえ―― あ。バカっ! また飲もうとしたな!
ち、違う、これはホットケーキをだな……
フフン。園美が鼻で笑う。
なんだ、そのどこかの首相のような笑い方は。
焼いといたから。
そう言いながら園美は、冷蔵庫からホットケーキの載った皿を取り出した。
本当に焼いていたのか。
飲み物ばかりに目がいって、まるで気付かなかった。
ガスコンロの方を見ると、使い古したフライパンが置いてあった。
……
数秒。時間が止まった。
てっちゃん、あたし……
メイプルシロップ、克服するから。
園美は沈黙をそっと破り、小さくそう言った。
震える声で続ける。
だからお前も、克服しろよな……
振り返ると、彼女の目に涙が浮かんでいた。
なぜだか俺は、鼻の奥がつんとなる。
ぐぐっと胸の底から熱いかたまりがせり上がってくる。
視界がぶわりとぼやけた。
園美、俺は……
俺は……もう、大丈夫だ。
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