それは道の向こうからやって来た。
渇き切った街テキサスを横断する一本道。ルート66に寄り添う古びたドライブインカフェ。
薄暗い店内では酒棚の上に置かれたスピーカーからスライドギターの気怠い音色が漏れている。
ハンナは少しずつ大きくなる点を、積年の汚れで薄曇った窓から、じっと眺めていた。
テーブルに肘を突き、飲み終えて空になったグラスを指で弄びながら。
やがて、地面に大きな弧を描いて駐車スペースに乗り入れたのは、70年代製の黒のカマロだった。
砂埃にまみれた大柄なボディが、外界に降り注ぐ眩しい陽の光を、鈍く反射していた。
ドアが開く。ペコスブーツがまず大地を踏み、長身を折りたたむようにして男が車から降りる。
ブロンドの短髪。ティアドロップタイプのサングラスをかけている。
ボタンを開け放ったシャンブレーシャツから分厚い胸板が覗いていた。
男は店に入るなり、カウンターに身を預け、ビールを1パイント頼んだ。
喉が渇いていたのだろう。
男はスツールに腰を下ろし、目の前に出されたジョッキを一気に飲み干した。
この店のビールはさほど冷えてはいないのだが、それも気にならなかったようだ。
男はそこでやっと一息ついたように店の中を見回した。
と言っても客は、カウンターの端にトラックドライバーが一人。
あとは窓際のテーブル席に、ハンナが座っているだけである。
男はスツールごと身体を回転させ、ハンナの方へ顔を向けた。
筋張った大きな手でサングラスを外すと、厳しい表情をすっとゆるめた。
「お嬢さん、一杯いかがですか」
その申し出は、穏やかな微笑とともにハンナへ贈られた。
「いただこうかしら」
ハンナも控えめな微笑を男に返した。
「お好みはあるかい?」
ハンナは男の問いかけに、ほんの一瞬、天井へ目をやった。
そして、あらかじめ用意していた台詞のように、こう答えた。
「あなたにまかせるわ」
男は無言でハンナに頷き、後ろを振り返った。
「じゃ、モヒートを二つ、頼む」
「モヒート?」
ハンナは尋ねた。
「ああ、ヘミングウェイが愛したカクテルだ」
「そう」
「バカルディラムにライムジュース。あとはソーダ水。
ミントの葉があれば尚いいが、そこまでは求めない。ここはテキサスだからね」
男はカウンターでグラスを二つ受け取ると、ハンナの待つテーブルへ席を移した。
「君のドレス。とてもいい色だ。陽の光を浴びた向日葵のようで、眩しいくらいだよ」
男は冗談めかして目を細め、サングラスをかけるふりをする。
「ふふふ、いやだ」
ハンナは、ポンと軽く、男の肩を叩いた。
「おお」
男は自分の肩を押さえ、ひどく痛そうな表情で、身体をくの字に折り曲げた。
その姿がなんとも滑稽で、ハンナは噴きだした。
男も大げさな演技をやめ、白い歯を見せる。
「本当に。明るい君の笑顔によく似合ってる」
「ありがとう。お世辞でも嬉しいわ」
二人は顔を見合わせ、にっこりと笑った。
この後、グラスが空になるまで、二人の会話は途切れることがなかった。
「――おっとすまない、お代わりを頼もうか」
「そうだわ」 ハンナは人差し指で、立ち上がりかけた男を制止する。
「それよりもあなた、お腹空いてない? 近くに美味しいメキシコ料理の店があるの」
「そう言われてみると、朝から何も――
――やぁ、ハンナ」
白昼夢は突然。しゃがれた声に破られた。
「ご機嫌はいかがかな?」
「あら、チャーリー……、とっても良くってよ」
意識が遠のいていた為、ハンナの返事は、ほんの少しだけ遅れた。
「そいつは良かった」
「あなたはどう?」
「ああ、ぼちぼちだね。それよりもハンナ、一杯奢らせてくれよ」
「そんな、いつも悪いわ」
「なに、遠慮することはないさ」
元郵便配達夫のチャーリーは、ハンナの幼馴染みだった。
顔を合わせる度、彼はハンナに飲み物を奢ろうとする。
ハンナが何度断っても、決して聞き入れようとはしない。
なにしろ彼にとってハンナは、初恋の人だったのだ。
もっとも、それはもう、七十年も前の話だが。
ハンナもチャーリーも、生まれてこの方、ついに町を出ることがなかった。
彼女がこのカフェで、運命的な出会いを求め続けて、はや数十年。
時は渇き切った風に乗り、彼女の目の前を何度も通り過ぎていった。
ハンナは皺だらけのチャーリーの手から、テキーラを一滴落としたコーヒーを受け取った。
窓の外をちらりと見、フッと一息、マグの中身を吹く。
漆黒の表面に起きたさざなみが、湯気をかすかに震わせる。
だが、いつもと何ら変わらぬ彼女の日常は、いささかも揺るぎはしなかった。
ハンナは、チャーリーに聞こえぬように、ぽつりと呟いた。
今日も世はこともなし、ね。
※これは元々、ブロ友の鯨さんのところで行われた企画用に書いたお話です。
その時は急いで書いたので、いまいち納得のいかないデキでした。
今回は推敲を加え、ストーリーはそのままで、少しだけ書き直してみました。
興味のある方は推敲前と読み比べてみても面白いかも(笑)
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