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「蝉」


引きこもっていた。

五年間だ。

髪や髭は伸び放題。

体重は二十キロ増えた。

何度も働こうとしたのだが、電話がかけられない。

履歴書が書けない。書けるような職歴もない。

ハローワークの前まで行くと汗が噴き出し、心拍数が上がる。

いつのまにか、人との接し方が分からなくなっていた。

見かねた両親は親戚に相談した。

俺はその親戚の紹介で、小さな工場に勤務することになった。

ほとんど人と会話をする必要はないそうだ。

しかも夜勤のみのシフトで構わないという。

近所の人間と顔を合わせずに済むからありがたかった。

自分で髪をバリカンで刈り、髭もきれいに剃り落とした。

唖然とした。

これが俺の顔か。

鏡に映る自分の顔が異物にしか見えなかった。

鏡を見る事自体が久しぶりだった。

俺は顔を鏡面に近付け、やや茶色がかった瞳を覗きこんだ。

学生や社会人だった頃、たしかにそこにあった光は、欠片も残ってはいなかった。

濁った沼が、静かに部屋の蛍光灯を反射していた。

ただそれだけだった。


   ☆    ☆    ☆


初出勤の日から遅刻する訳にはいかない。

ちゃんと出来るというところを見せなければならない。

着替えや水筒を入れたスポーツバッグを担ぎながら駅までの道を急ぐ。

何かが視界の端で動いている。

セミの幼虫が、歩道の縁を、のそりのそりと歩いていた。

月の光を跳ね返す薄茶色の球体。

俺は立ち止まり、その場にしゃがみこんだ。

スロウな歩みでそいつは進んでゆく。

頑張れよ……街路樹は、すぐそこだ。

俺は、渇いた口の中で、ぎこちなく言葉を転がす。

だが、樹の根元まであと数センチというところで、

ぽつりぽつりと現れた黒い点が幼虫にまとわりついた。

それが合図だったように地面のいたるところから蟻達が湧き出してきた。

ごぉぉおおお、という音と共に。

黒い嵐は瞬く間に増幅し、幼虫を覆い尽くそうとする。

蠢く黒衣を背負いながらも幼虫は、重戦車のように前へ進み続けた。

地表に張り出した街路樹の根に幼虫の前足がかかる。

だが、黒の集合体は圧倒的な質量で、ついに幼虫を飲みこんだ。

根を掴んでいた前足のフックが外れ、幼虫は背中から地面に転がり落ちた。

音はしなかった。

一度は分散した蟻達が、仰向けになった幼虫の腹を狙い、次々に襲いかかってゆく。

鋭い鉤爪を持つ幼虫の前足は蟻達を攻撃する事もなく、虚しく空を掻いていた。

やがて動きは収まった。前へ進もうとする力は永遠に失われた。

幼虫の腹からほとばしる黒い濁流が地面に川を作りはじめた。

俺は腰を上げ、歩き出した。

駅へ向け歩を進めながら、薄ら寒い月明かりに自らの手をかざす。

指先の鋭いシルエットが月に浮かんだ。

爪を切り忘れていた。

この先、待ち受けているもの。

越えなければならないもの。

着実に、一歩ずつ進めば……

進めば……

突然、汗が噴き出してきた。

俺はバッグを放り投げた。

もう一度空を見上げる。

月は黒い雲に包みこまれようとしていた。

俺は叫んだ。

何度も、

何度も、

喉を掻きむしり、叫び続けた。

声は出なかった。













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「最期の台詞」


男は口を開いた。

「ラオウは『我が生涯に一片の悔いなし!』と言って死んだよね。

男の死に様、かくあるべし。みたいに美談として語られがちだけどさ。

僕はね。死ぬときに、やり残したことはない。悔いはない。

なんて言いたくないんだ。だってちっぽけじゃないか。

君のやるべきことってそんなに少なかったのかい? って思うよね。

僕ならこう叫ぶつもりさ。

『ああ! 僕の人生はやり残したことだらけだった!』ってね。

あいつは夢と希望に満ち溢れたまま逝った。

死ぬ寸前まで前向きな男だった。そう言ってもらえたら本望だよ」

「なるほど。で、どうしたいんだ?」

「と、とりあえず……もう少し生きたいですっ!」

「言いたいことはそれだけか?」

後ろを向いて駆け出した男の背中に向け、拳銃が火を吹いた。












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