ブクブクブク。
バスタブに潜る。思いのほか深かった。
いつもならせいぜい5メートルくらいで底に手がつくのになぜか今日はどこまで潜っても底が見えなかった。
ブクブクブク。
泡の風船が勢いよく駆け昇ってゆく。
赤、青、黄色、黄色、青、赤。
風船が消えたかと思うとこんどは色とりどりのドレスを着た熱帯魚さんたちが足早に目の前を通り過ぎてゆく。
どこかでパーティーでもあるのかしら。
わたしは艶やかな後ろ姿を見送ると、さらなる深みを目指して足を掻いた。
ブクブクブク。
不思議なことにぜんぜん息は苦しくなかった。
いつもならとっくに息切れしてバスタブから飛び出しているのに。
ちょうどいい湯加減だったお湯はいつの間にか冷めて今やただのなまぬるい水になっていた。
これでのぼせる心配もなくなった。まだまだ潜れる。
懸案事項がクリアされたことで俄然やる気と勇気が沸いてくる。
今なら世界新記録だって出せそうな気がした。
ブクブクブク。
ゆったりとしたリズムで水を蹴りながらわたしは考える。
1978年にジャック・バスクリンが叩き出したフリーバスタブダイビングの世界記録は115,2メートル。
今のわたしも、もう80メートルは潜っているはずだ。それくらいは魚の種類の変化でわかる。
バスタブの中を明るく照らしていた浴室の照明はもはやすっかり色を失って、わたしはすっぽりと闇に包み込まれていた。
ときおり通りかかるキュートな深海魚さんたちが青白いライトをちかちかと点滅させては、わたしにエールを送ってくれる。
ありがとう。ありがとう。わたしは手を振り返す。彼らもきっと記録の更新を期待しているのだ。
およそ40年間も破られなかった偉大な記録に、あのジャック・バスクリンに、このわたしが近づこうとしている。
そう考えると身震いがした。
ブクブクブク。
水圧が急にきつくなってくる。
からだがきゅうっと締めつけられる。
もうわたしの頭の中には記録のことしかなかった。
頭もからだもスリムになったわたしはなにか不思議な力に引っぱられるようにバスタブの深部へ落ちてゆく。
ブクブクブク。
ついに眩しい光が見えた。
そのまわりには真っ白な天井が広がっていた。
わたしは裸のまま脱衣所の床に寝かされていた。
となりでママが泣きわめいていた。
あなたまた泡を吹いていたのよ!
なぜこの人は泣いているのだろう。
どう見ても歓喜の涙には見えなかった。
カメラのフラッシュもなければ、突き出されるマイクもない。
もちろん取り囲む報道陣などひとりもいなかった。
どうやら世界新はならなかったようだ。
わたしはジャック・バスクリンにはなれなかった。
ごめんね深海魚さん。期待に応えられなくて。
ブクブクブク。
目をつむるとふたたび泡の音が聞こえてきた。
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