私は阪神甲子園球場のバックネット裏で、紙コップに注がれた生ビールを呷っていた。
スタンドは今日も超満員の状態で、黄色とピンクが入り混じった下世話な色に染まっている。
昔は甲子園の観客席のカラーといえば黄色と白ばかりで、
それがグラウンドの芝や土の色と上手く調和していたのに……
何故ピンク色のグッズなどを売り出したのだろう。
日本人の美的センスはまったく嘆かわしい。
私は美しいものが好きなのだ。
そう、例えば彼のスイングのように。
私は見苦しい観客席から、一塁側タイガースのベンチへ視線を移した。
お目当ての選手は、ベテラン木山進一郎。
野球ファンなら知らぬものはいない左打ちの好打者だ。
だがその彼も、今季は若手にスタメンの座を奪われ、代打での起用が増えていた。
若手の育成は必要だが、経験に裏打ちされた木山の勝負強さもまだまだ捨てたものではない。
首脳陣はきっとそう考えているのだろう。
私は彼の鋭く美しいスイングと豪快なホームランが好きだった。
さて、試合へと戻ることにしよう。
タイガースは1点をリードされたまま9回裏の攻撃を迎えている。
相手チームは、満を持してリリーフエースの投入だ。
ワンアウトのあとフォアボールと失策が続き、ランナー、一塁三塁。
ここで代打木山か。
だが、監督は動かない。
木山はベンチの最前列で手を動かし、サインのようなものを出している。
残す現役生活も長くないと考えて、コーチ業の練習だろうか?
いやペナントレース中の試合でそんな事はありえない。
8番バッターの内野ゴロの間に1点が入った。
これで同点。
尚もランナー二塁。
一打勝ち越しサヨナラの場面だ。
ついに監督が立ち上がった。
「9番ピッチャー、坪田に代わりまして、木山。バッターは木山、背番号24」
お決まりの場内アナウンスが流れる。
コールを聞き、沸き立つ観衆。
左対左になるが、木山は左腕を苦にするタイプではない。
木山は悠然とバッターボックスに入り、足場を整え始めた。
自分が納得するまで。じっくりと、念入りに。
このベテランならではの落ち着きが頼もしく思える。
焦らされるピッチャーは苛立っていることだろう。
やっとバットを構えた木山が顔を上げた。
燃えるような眼差しでピッチャーを睨みつける。
彼の身体から発する威圧感が球場を支配する。
けたたましい声援が一瞬静まり、再び大音量で鳴り始めた。
まるで地響きだ。甲子園が激しく揺れる。
1球目。
鋭く内角を抉るストレート。見送って1ストライク。
続いて、外角低めへ沈むスライダー。
空振り。
わずか2球で追い込まれた。
大声援に拍車がかかる。
3球目。
恐らく木山を仰け反らせるつもりで内角を狙ったストレート。
だが、その球がストライクゾーンに甘く入ってきた。
木山のバットが始動する。
ヘッドが美しいカーヴを描き、吸い寄せられるようにボールの軌道と交錯してゆく。
直後、渇いた音が響き、ボールが濃紺の空に舞い上がった。
行った。
間違いない。
ライト、ポール際に飛び込む見事なホームランだった。
勝利の一撃を放り込まれたスタンドは蜂の巣を突ついたような大騒ぎだ。
周りが総立ちになる中、私は座り込んだまま拍手することも忘れ、
彼の放った美しいホームランの残像がもたらす余韻に酔いしれていた。
木山は大歓声に片手を挙げながら、じっくりと味わうようにベースを踏みしめてゆく。
ホームへ辿り着いた途端、木山はベンチを飛び出してきた選手達に囲まれた。
彼を待ち受けていたのは殴る蹴るの手荒い祝福。
見ているこちらも自然と笑みがこぼれる。
そうこうしている間にヒーローインタビューの用意が整ったようだ。
木山進一郎はお立ち台に上った。
「木山選手、サヨナラホームラン、おめでとうございます!」
「ありがとうございます」
「打席に入った時は、どんなお気持ちでしたか?」
「今日はチームの勝利の為、ファンの皆さんの為、
そして一人の男の子の為にバッターボックスに入りました」
木山はTVカメラの方を向き、手と指をぎこちなく動かし始めた。
私は、はっと気付いた。
これは、さっきベンチで――
「打ったぞ・ホームラン・約束通り・君も・負けるな」
両手の動きと合わせながら、木山はゆっくりとカメラに語りかけていた。
そうか、あれは手話を練習していたのか……
木山は帽子を高々と掲げ、大観衆の声援に応えた。
歓喜の六甲おろしがスコールとなり降り注ぐ中、
私は混雑を避け、足早に通路を出口へ向かった。
今夜は美味い酒が飲めそうだ。
アテはもちろん彼のホームラン。
ゲートをくぐり外へ出る。熱狂空間から現実世界へ。
私は余韻を求め、一度だけ球場を振り返る。
浜風が私の頬をふわりと撫でた。
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