お先に失礼しまーす。
客席でまたーりと雑談している同僚達にそう言い残し、
オレはタンタンタンと渇いた音を立て、リズムよく階段を駆け降りる。
電源を落とした自動ドアをググっと開き、夜の街へと飛び出した。
左右に色とりどりのネオンが並ぶ通りを駆け抜けると速攻で駅前広場に出る。
初夏の生ぬるい風に乗っかっているのは、
ストリートミュージシャンの掻き鳴らす平板なアコギの音と、
下手ではないが高音域で掠れる彼らの青い歌声。
これがまた安っぽい街に絶妙にマッチしているのだ。
なんて駄洒落も飛び出す始末。
地べたにシートを広げ自作のイラストを売る兄ちゃん。
女の子に声をかけまくるホストヘアーONジャパニーズフェイス。
これが油の匂いの漂うこの街で繰り広げられるいつもの光景。
オレはそんな街の空気を構成するパーツ達には目もくれず、
ズラリと並んだ改札機に向かった。
いや、向かおうとしたのだ。
だが、その前に人、人、人、人、人、人、人だかり。
言わずと知れた飲み屋街だけに休日前の人の多さは慣れっこだったが、
今日はいつもに増して人が多い。
何やら拡声器で群集を仕切っている駅員までいる。
オレは体を横向きにしながら人混みの隙間をすり抜け、改札機をクリアした。
階上のホームへ続くエスカレーターへ乗ろうとしたところで尿意発覚。
Gショックを見る。電車が来るまでまだ4、5分ある。
Uターンしたオレはトイレに向かう。
小便エリアには先客が一人。光沢のある緑色のスーツを着た男。
蛍光灯の光をギラリと反射する珍しい生地だった。
オレが男の隣の隣で溜め込んだ水分を流しはじめると――
「疲れるねぇ」
横からぼそり。
オレに話しかけたのか?
小便中に見ず知らずの人間に話しかけられるなんて気味が悪い。
オレは顔を下げたまま眼球だけを右に動かしてちらりと隣を見る。
男は前を向いている。なんだ。ひとりごとか。
「俺を誰だと思ってるんだ! お前らみたいなクズとは人間のデキが違うんだよ!」
今度は大きな声。男は壁に向かって叫んでいた。
予期せぬ大声に正直言って驚いた。
あやうく聖水をこぼしかけたじゃないか。
「あああああああああああああああああああああー、
疲れた疲れた疲れた疲れた疲れた疲れた疲れた疲れた」
男は抑揚のない声で同じ言葉を繰り返す。壁に向かって。
オレの放水は止まってしまった。
タンクにはまだ在庫があったのだがダメだ。出ない。
退散したいが、身体が強張って身動きも取れない。
オレはとりあえず隣を見ないようにして、
鳩尾の下辺りの高さにある赤外線センサーの赤ランプをじっと見つめていた。
気分が悪い。嫌な汗が出る。
便器から立ちのぼるアンモニアのツンとした臭いと、
自分の胸元から湧き出る汗の酸いー臭いがゴールドブレンドで鼻腔直撃だ。
なんとも臭い。
その時、隣の影が動いた。
良かった……
オレは、ほぉぉっと息を吐き出す。
男はオレより先にトイレから出ていった。手も洗わずに。
なんだかやばい感じの人だったなぁ。
あんなのに関わるとろくなことがない。
絡まれなくて良かったと心から思う。
オレは息子を仕舞い、小便器の前を離れた。
赤外線センサーが反応し、水がシャーっと流れる。
そういえば……、さっきの男の時は流れなかったよな……
時間が決まっているのか? いや、それじゃ赤外線の意味ねーし。
オレは気味の悪い出来事を洗い流すように水道で手を清め、
鏡で髪型をチェックし、トイレを後にした。
早足でエスカレーターに向かう。
ホームに降り立つと、そこはまるで満員電車の車内の様相だった。
なんだ、この人の多さは。
ざわざわざわわとざわめく群集。お前らは森山良子か。
肝心の電車はホームの途中で止まっている。
オレは近くに突っ立っていた黒縁メガネサラリーマンに尋ねてみた。
「何か、あったんですか?」
「飛び込みがあったようですね」
黒縁メガネサラリーマンは脂ぎった顔をハンカチで拭きながら答えてくれた。
まさか、さっきの……
「それって、今ですか?」
「いや、僕も見てないんだけど、もう一時間も止まったままらしいです」
「一時間……」
じゃ別人だな。
オレは控えめな平泳ぎで人ゴミを両脇に排除しながらホームの端に進んだ。
白線の外側から下を覗き込むと、線路上では救急隊員と駅員が一緒になって作業をしている。
先頭車両のチョイ手前に置かれた担架には毛布がかけられ、
その毛布の中央部分は、ぼこりといびつな形に膨らんでいた。
怖い。怖いのだが目が離せない。
赤黒く染まった毛布の端から、何かが覗いている。
光沢のある緑色のぼろきれがギラリと光り、オレの両目を貫いた。
なぜだか、どっと疲れた。
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