窓の外では明るい日差しがアスファルトに照りつけている。
さつきはホテルの近くのカフェでひとり、背の高いスツールに腰かけていた。
街行く人々の姿を目で追い、東京の景色との違いを楽しみながら。
ふと、店内へ目を向けると、小さいカップを手にした女性が辺りを見回している。
定規で引いた直線のようにしゃんと伸びた背筋には見覚えがあった。
大きなフレームのサングラスをかけていて、表情は窺えないが、
あれはきっと姉に違いない。さつきはそう思った。
「お姉ちゃん」
さつきは自らの場所をしらせるように手を挙げた。
姉のやよいは気付いたようだ。
サングラスを外し、軽やかな身のこなしでさつきの席へ歩み寄ってくる。
身体にフィットしたグレイのパンツスーツがよく似合っていた。
「あら、さつき、あなた大きいのにしたのね」
彼女は、さつきの手に収まりきらない大きなカップを見て、目を丸くした。
「トールサイズプリーズって頼んだら、こんな大きいのが出てきたの。
日本のグランデサイズよりも大きいんじゃないかしら。焦ったわよ」
「こっちの食べ物と飲み物は気を付けなきゃダメよ、日本とはサイズが違うんだから」
「ほんとに実感したわ。海外に来てるんだなぁって」
さつきの言葉を受けて、やよいは目を細めた。
「いらっしゃい、さつき。よく来たわね」
やよいは、そう言いながら腕を身体の脇に広げた。
さつきはスツールからすっと降り、
軽く胸を合わせるようにして姉と抱き合った。
日本に居るときは勿論、こんな挨拶はしない。
カリフォルニアのからりと乾いた空気がそうさせたのだろうか。
「さつき、結婚おめでとう。ごめんね、式に行けなくて」
「いいのよ、こうしてお姉ちゃんの住む街にまで会いに来れたんだしね」
「今、旦那さまは、お友達と会ってるんだっけ?」
「ううん、昔の仕事仲間だって。でも、夜には合流して一緒に食事が出来るわ」
「そう。それにしても、本当に良かったわね。
わたし嬉しいわ。やっとさつきがお嫁に行けて」
やよいの頬が緩む。
日焼けのせいか、彼女の顔は日本にいた頃よりも、随分すっきりとして見えた。
「わたしも諦めかけてたからね。自分でもいい人が見つかって良かったと思ってる」
「メールで写真は見せてもらったけど、結構ハンサムな人じゃない」
「でしょ、ルックスは今風ではないけど、整ってる方だと思うわ」
「有名人で言うと誰かに似てるの?」
やよいはすらりと伸びた指でカップを包み、ほんの一口だけ中身を啜った。
「そうだなぁ。しいて言うなら――、仲村トオルかな」
「そ、それは今風ではないわね……。でも優しい人なんでしょ?」
「そう、そこよ。とにかく優しいの。
わたしって今まで付き合ってきた人がアレでしょ?」
さつきは少し自嘲するように肩をすくめた。
「ああ、そうだったわね、あなたの選ぶ男の子って昔から――」
『亭主関白』 見事にハモった。
周りの客から視線が集まるほど大きな声で二人は笑った。
「あなたの選ぶ男の子ときたらみんな、結婚してる訳でもないのに亭主面してねぇ」
「ふふ、わたしもそういうタイプに慣れてたから、今の彼の優しさには驚いたわよ」
「そうでしょうね。ところで彼の事はなんて呼んでるの?」
「直くんよ。直人(なおひと)って言うの」
そう言いながらさつきは年甲斐も無く照れた。
「直くんはね。建物や部屋に入る時は必ずわたしの為にドアを開けてくれるし、
荷物なんて自分で持つからってわたしが言っても決して持たせてくれないし、
レストランでは当然のように壁際の席にわたしを座らせてくれて、
帰りにわたしがお金を出そうとしたら、いいんだ。もう払っておいたよ。
なんて、いつもわたしが席を外してる間に、会計を済ませてるんだもん」
「へぇ、確か昔の彼氏のときなんて、あなたが払ってたわよね、デート代。
よく帰ってきてから愚痴ってたのを覚えてるもの」
「トシくんの時?うん、あの子は甲斐性無しだったからね」
さつきはほろ苦い過去を思い出し、顔をしかめた。
「そんな話はいいじゃない。直くんはね。クルマで迎えに来てくれる時も、
わざわざ運転席から降りて、助手席のドアを開けてくれるんだから。
今まで付き合ってきた人の事を考えたら、考えられないわよ」
さつきは堰を切ったような勢いで、直人の優しさを説明する。
「ふふ。嬉しそうね」
「ほんとに驚いたのよ。日本人でもこんな人がいるんだ、って」
「シャイな人が多いしね。なかなか照れくさいところがあるんじゃないの。
日本の男の人にとって、レディファーストっていうのは。
もちろん、こっちでは当たり前の事よ、子供の頃から教育されてるから」
「お姉ちゃんの旦那さまも優しいもんねぇ。初めて会った時はびっくりした」
「あなた、あの時はそんな彼氏はヤダって言ってたじゃない」
「ほら、わたし尽くすのが好きじゃない。だからよ。
優しくされすぎると戸惑っちゃって。だってお父さんがあんな感じだったでしょ?」
「そうねぇ。お父さんはまさに頑固な父親日本代表って感じだったものね」
二人は子供のような表情でくすくすと笑った。
父親は今頃日本でくしゃみをしていることだろう。
「お父さんは元気にしてるの?家に電話をかけても出るのはお母さんばっかりで、
お父さんは全然、代わろうとしないでしょ?娘の声が聞きたいと思わないのかしら」
「でも、いつもお母さんが電話を切った後で、どうだ?やよいは元気にしてたか?
って訊いてるから、きっとお父さんも心配してるけど照れくさいのよ」
「日本人よね、そういうところも」
やよいはそう言うと視線を落とし、左手にはめた腕時計をちらりと見た。
「ああ、いけない。そろそろ子供を迎えに行かなきゃ」
「ほんと、もうこんな時間だ」
さつきも自分の時計を見て驚いた。
「久しぶりだから時間を忘れちゃったわね」
「また夜にゆっくり話せるよ。彼もお姉ちゃんの旦那さまも一緒に」
「旦那さまって、なんだかこっちで聞くと変な感じだから名前で呼んでよね」
やよいは片手を腰に当て、モデルのようなポーズでそう言った。
「はーい。デビッドさんだよね」
「デイブでいいわよ」
「えー、なんだかデイブスペクターみたいでいやだな」
「ちょっと、あんな胡散臭い人と一緒にしないで」
「あはは、お姉ちゃんそれ言いすぎ」
「じゃあね、さつき。あとで電話してね」
「分かった。あとでね」
☆ ☆ ☆
「さぁ、さつき。行こうか」
「ええ」
「クルマはホテルの裏に呼んであるんだ」
「そうなの?」
直人はノースリーブのワンピースに着替えたさつきの手を取って、
エントランス前の階段を軽い足取りで降りてゆく。
ホテルの裏手に回ると、人気はまったくなかった。
海岸線を走る道路の向こうには、無人のビーチが広がっているのが見えた。
夕陽を浴びる波間がきらきらと光を反射している。
海辺なのに不思議と乾いた潮風が二人の髪を撫でた。
「まだ来てなかったか……」
直人は海の方を見つめながら、煙草に火を点けた。
「この海岸線の道が気持ちいいらしいよ。
交通量も少ないようだし、景色を楽しみながら行こうね」
夕陽を正面に受けている直人は、眩しそうに手をかざして微笑んだ。
「直くん、わたし幸せだわ」
「僕もだよ」
直人はさつきの腰を抱きよせ、彼女の頬に唇を寄せた。
数分後、白いメルセデスのSUVが、ゆっくりと駐車場に滑り込んできた。
クロームメッキのホイールがきらびやかに光っている。
ドアが開き、中から数人の男達が降りてきた。皆アジア系の顔立ちだった。
「なんだ?」
直人は驚いたような表情を見せている。
男達は、互いに何やら短い言葉を交わし、急に背中からピストルを取り出した。
「ちょっと、なんなの?」
「おい、なんだお前ら、どういうことだ」
直人はさつきの手を取り、ジリジリと後ろに下がった。
男達はピストルを持つ手を前に伸ばし、二人に照準を合わせた。
「や、やめてよ……」
「おい、お前ら、やるなら……、やるなら先に、彼女をやれ!」
「え?」
さつきは直人の言葉を聞き間違えたのだと思った。
と、直人が強い力で、さつきを前に突き飛ばした。
「直くん!? どういうことよ?」
直人は、いつのまにか余裕の表情に変わっていた。微笑みすら浮かべている。
「お先にどうぞ」
「え?」
「お先にどうぞ、あの世へ」
「ちょっと直くん、何言ってるの?」
「ふふ、まだ分からないのかい?」
「何、何の冗談なの?」
「冗談じゃないよ。レディファーストじゃないか」
男達は、もったいぶってタバコをくわえる直人には目もくれず、
さつきの両手を掴み、頭にピストルを突きつけた。
「痛い、やめて、殺す気なの?嫌よ!
こんなところで死にたくない!なんでもするから、冗談だと言ってよ!」
「なに、心配することはないさ。
もう払っておいたからね。君の生命保険料は」
さつきの発するくぐもった悲鳴が、駐車場の外に漏れることは無かった。
夕陽を浴びて長く伸びる影が車内に吸い込まれてゆく。
やがてメルセデスは無表情のまま静かに走り出した。
渇き切った心と、壊れた希望を載せて。
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